「死ぬ夢を見たの。」


お伽噺とか、嘘っぽい俗話とか、
そんなものは一切感じさせない、ごく普通の語り口で、彼女は僕にそう言った。

その横顔が余りにも寂しげで、儚かったから。
僕は思わず眠りにでも就くかのように自然に、彼女の話にのめり込み、耳を傾けた。









頭上には満天の星空が広がり、薄っすらと青みを帯びた満月がぽっかりと浮かんでいる。
僕達はその月明かりに照らされて、恋人同士のように肩を寄せ合うでもなく、かと言って友達同士のように騒ぐでもなく、静かな海辺の砂浜に腰を下ろしていた。
偶、彼女が島でぼうっとしていたから声をかけただけ。
彼女はいつもなら僕の名前を呼んで駆けてくる筈なのに―今夜はただ曖昧に微笑んでいただけで、何となしに近づいた僕に ただ黙って隣を指し示した。
僕は勿論、その意図を理解して隣に座る。

彼女は暫く僕の顔をじっと見ていたけれど、やがてそれにも飽きたのか、鏡のように撫いだ海を見詰めた。

ただただ静かな時間。

沈黙は嫌いじゃない。
寧ろ静かな方が好きだけれど、彼女と居る時はいつも何かと騒々しいから、僕は思わず焦って話題を作ろうとする。
海が綺麗だ、とか、晴れてて良かった、とか。
そんなどうでも良いことを呟こうと口を開き掛けたその時、彼女が僕の言葉を遮るように開口した。


「死ぬ夢を見たの。」


余りにも小さなその声は、初夏の淡風にさえ溶けて消えてしまいそうだった。
いっそ消えて無くなって、僕の耳には聞こえなかった方が良いのではないかと―今では思う。
けれどそれは、僕にとっては驚く程大きな意味をもって鼓膜を揺らしてしまった。

僕はじっと砂浜の粒を見ていたが、その言葉に彼女を凝視してしまう。
彼女は相変わらずの、頭上の月のように柔らかい微笑を口元に湛えているだけ。
どんな時も弱音を吐かずに、自分の強い所しか表に出さないこの女は。

今僕に、何かとてつもない告白をしようとしているのではなかろうかと。

自惚れか勘違いかも分からないが、野生の勘が告げる。
僕が完全に思考を整理する前に、彼女は再び口を開いた。


「寂しい夢だった。
―誰にも知られずに、独りで何処か知らない場所に沈んでゆくの。」

「…うん。」


そこでやっと僕は、きちんと意味を為す言葉を発する事が出来た。
掠れていなかったか、大きさは充分か、本当は気にしたい所だったが、彼女の話のお陰でそれどころじゃなかった。
相槌を打った僕を見詰め、また同じ調子で彼女は続ける。


「其処にはただ底の見えない闇と、数知れぬ魂の光だけがあったわ。」


当然だけれど、見た事のない死の世界。
彼女の言葉を元にぼんやりと想像してみても、その視界はぼやけ抽象的にしか見る事は出来ない。
死んだ夢を見たという彼女は、寿命は計り知れない上に簡単には死ねない「悪魔」だ。
それがコンプレックスなのか誇りに思っているのか、まだ彼女は話した事はない。
悪魔だからと権力をかざすこともない、かと言って悪魔だからと自分を追い詰めることもない、
「私は自由にも縛られないのよ」と笑い飛ばし、自由に生きていると思い込んでいた。
実際そうかも知れない。

だが、自由だからこその何も見えないという怖さを、今彼女は言葉足らずにも語ろうとしているように見える。
そしてね、と漏らした口唇を見詰める。


「ずっと降りていくと、死んだ自分が見えたの。
モンスターに喰い破られて、血塗れになって―そこには美しさの欠片も無く、ただの肉塊となり下がっていた。
それでも残された私の顔は 笑っていたわ。」


彼女の今の表情からは笑みが消えていた。
そしてまた海を見詰めて、その静かな水面に夢を再生しているように見えた。
瞳には深い感慨が滲み、砂浜に落ちた手の指先は白く。

月に照らされた彼女の柔らかな髪が風になびいて、儚げな七色を発しながら揺れる。


「…絶冰。」


次の瞬間、僕は彼女を抱き締めていた。
細い肩が大きく震えて、やがてゆっくりと彼女が僕の首筋に鼻先を埋めてくる。
肌は驚く程冷えていて、それが寂しさに比例しているようで歯噛みするほど切なく、僕は尚更強く彼女を抱き締める。


「…稀野様、私…怖くはない。
死というものは、痛いことも 冷たいことも…知ってるつもり。」


蚊の鳴くような、掠れた小さな声。
本当は心すら抱き締めてあげたいのに、それは多分 僕には出来ない。

僕は知っている。

彼女が、仮面で隠した本当の自分の中で誰かを強く慕い、愛している事を。
無論、それが誰とまでは分からないが。


「絶冰、僕が傍に居るだけじゃ不安…だよね。」


囁くような声に、埋めていた顔を此方に向けて見詰めてくる。
そして僕の勘を見抜いているかのように、強かな言葉を呟く。


「私には人を愛する資格は無いわ。」


誰が傍にいようといまいと、自分には関係ないと云うような顔を繕って。
それは失って一番傷付き、自我を崩壊し易い選択だと気付いていないのだろうか。

―否、僕より長く生きている彼女が知らぬ筈がない。
誰かを喪い、絶望に暮れる苦しみを。


「稀野様、今夜のことは誰にも秘密…ね。」

「分かっているよ。」


自分の口唇に人差し指を宛てて、くすりと微笑する彼女は綺麗だ。
けれど、その仕種や眼差しから哀しみが消える事は無かった。

辛いなら泣けば良い、じゃあどうやって?
誰が彼女に教えてやれたんだろう。



彼女は多分、他の誰かと共存するという一種社会的な選択を、何処か生臭い場所に忘れて来たのだと思う。
いや、もっと言えば無意識に隠してきたのだろうと思う。

よりよく時代を超えてゆく為に。
よりよく自分を奮い起こす為に。



――そしてその夜、僕は絶冰を抱いた――


震えるような快楽が全ての不安を払ってくれるとは思わない。
寂しさの余りに、身体を重ねた訳でもない。

ただごく自然に、互いを貪るように影を一つにしただけの、本能に従っただけの獣の行為だった。

この浜辺の砂のように、指の間からすり抜けてゆくような、
虚しい、交わりだった。



僕は朝陽に薄れてゆく、あの一夜のような満月を見届けながら思う。

もしも彼女に自ら命を絶つだけの勇気が無いなら、死というものは―今のところ夢の中でしか叶わない幻なのかも知れない。
彼女にとってそれはどういう意味を孕むのかは分からない。

だがこの世界が時を紡ぎ続ける限り、その瞬間は徐歩して来ているのだと思う。


永遠などあり得ない。

物も人も、必ず朽ちる時が来る。




「…稀野様。」


僕の三歩前を歩いていた彼女が、朝陽を背に振り返る。
僕は半ばぼうっとしながらも、それを悟らせないようにと曖昧な笑みを浮かべて頷く。


「私、これで良かったと思うわ。」


逆光で彼女の表情は伺い知れない。
僕はその言葉の意味を完全に図る事はできなかったけれど、彼女がそれで良いと
言うなら僕もそれで良いと思えた。


「…そうだね。」


僕のその一言を聞いた彼女は、満足げに溜め息を溢してまた歩き出す。
その華奢な背中を追い掛けながら、僕も少しだけ満たされた気持ちになった。

彼女は自分が傍にいることを拒みはしなかった。

ただそれには応えてはくれないのだと、それだけは僕自身も理解している。
それとも、実は律儀な彼女なら精一杯の申し訳なさでも見せてくれるのだろうか。



「…馬鹿馬鹿しいね。」


言葉も態度も必要ない。
そこにあるのは「事実」という約束だけだ。

僕はそう思うことにする。
今は不安を振り払いたいだけかもいれないが、いつか心からそう思いたい。

もう一度三歩先の彼女を見ると、此方を見詰めて小首を傾げている。
僕はつい、それが可笑しくて口角を吊り上げた後にそっと彼女の肩を抱いた。




さあ、僕らが最期の朝を迎える前に

一体何を守ろうか――?







Fin.


――――――――――――――――+



『生きる為に失うものは多く、大なり小なり誰かを犠牲にして生きている。』

 

inserted by FC2 system